宝蔵院胤栄(ほうぞういんいんえい)

奈良の大寺院・興福寺の中には40余りの坊があり、その中の一つに宝蔵院がありました。 その宝蔵院の院主が胤栄(覚禅坊、俗名・伊賀伊賀守)でした。

十文字の槍

胤栄は僧侶ながら、武術を好み、十文字の槍を操った槍の達人でした。 はじめ、ほかの僧兵と同じように長刀(なぎなた)を扱っていましたが、槍を使う成田大膳という兵法者と試合をしたことをきっかけに槍術を学び、並ぶものの無い槍の達人になりました。

胤栄は 大和の守護だった松永弾正(松永久秀)に招かれて槍試合に望み12連勝したこともあるといいます。

柳生石舟斎とともに上泉伊勢守から新陰流を学び、印可状を与えられました。

武器の封印

宝蔵院内の道場には僧や武士など、多くの弟子が集まり、稽古者の熱気であふれていました。 そんなあるとき、胤栄はこう言い出しました。

「 仏門にありながら、 武術を行ってきたことは、 本当は罪が深いことである。 これから宝蔵院は武術を捨て、 武器をおいたり、 稽古をすることは一切禁止する。 」

そして、宝蔵院内の武器などを処分させました。 稽古者の熱気にあふれた宝蔵院は嘘のように静かになりました。その後、胤栄は87歳の長寿で亡くなりました。

二代目 宝蔵院胤舜(いんしゅん)

宝蔵院は胤栄のあと、二代目として宝蔵院胤舜が受け継ぎました。 その胤舜はこう考えました。

「 この寺が名高いのは釈迦の残したお経の為ではなく、ただ先代・胤栄の槍術のおかげである。 だから私も槍術を継がないでいることはできない。 」

胤舜は、胤栄の門下・奥蔵院に学び槍術を大成し、宝蔵院の武芸を復活させました。 宝蔵院はまた稽古者の活気で包まれるようになりました。

以来、 宝蔵院は槍術のよほどの達人でないと院主にはなれず、空座になることも珍しくなく、徳川後期までわずか6代の院主しかいませんでした。

宝蔵院は明治時代の廃仏毀釈によって壊され、現存していません。

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