剣聖と呼ばれた武人
上泉伊勢守(上泉信綱、秀綱とも)。信長や秀吉の活躍が始まる頃、「剣聖(けんせい)」と呼ばれた上泉伊勢守がいました。
上泉伊勢守は戦国武将としても活躍し、また新陰流を開眼し多くの弟子を育てた剣豪でもありました。
大勢力がひしめく上野国
上泉氏を率いる上泉伊勢守は名将・長野業正に従い、武田氏、上杉氏、北条氏の大勢力がひしめく上野国(こうづけのくに・現在の群馬県)で、「十六人槍」、「上野一本槍」といわれるほどの戦功をあげました。
しかし、やがて長野氏は武田信玄に滅ぼされてしまいます。
戦後、上泉伊勢守は剣の道を歩みたいと仕官を辞退し京都へ旅立ちました。
剣豪として旅立ち
上泉伊勢守は弟子の疋田文五郎、神後伊豆守を連れ、京都へ向けて旅立ちました。
旅の中での有名な逸話があります。
一行が 妙興寺というお寺付近の村にさしかかったときのこと、村では乱暴者が子供を人質にして小屋にたてこもっていました。
上泉伊勢守は、乱暴者に握り飯を放り、乱暴者の両手がふさっがた瞬間、誰も傷つけず、子供を助け出し騒ぎを解決に導きました。
この逸話は黒澤明監督の「七人の侍」に使われていますが、映画では乱暴者を切り捨ててしまいます。上述の妙興寺は、現在の愛知県にある臨済宗の名刹で、上泉伊勢守が新陰流の無刀取りを編み出した地といわれています。
京都
京都では天皇や将軍に兵法を披露し、この時代に剣術家として高く評価されたのは珍しいことでした。
また、公卿の山科言継と親交が厚く、その日記に上泉伊勢守に関する記述が残っています。
剣聖 上泉伊勢守
あの戦国乱世にあっても、上泉伊勢守は対決してただ相手を殺してしまうのではなく、むしろ弟子として育て多くの一流の武人を世に輩出しました。現在でも多くの流派で祖と仰がれています。
ただ強いだけでなく、上泉伊勢守のこの懐の広さは剣聖と呼ばれる理由の一つであり、また現在でも争いの絶えない私達も学ぶべきものであります。